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Aboutくみもんの生い立ち

  • 誕生から幼稚園まで

    誕生から幼稚園まで

    36週、1420gで誕生したため、長期間保育器に入っていました。虚弱体質で、毎月、発熱して寝込み、そのたびに食事が取れずに体重が減っていたそうです。そのせいか、「この子は大人になるまで生きていられないかも」「20歳になる前に死んでしまうかも」と両親が心配するほどの神経質な子どもでした。

    父は大のスポーツカー好きで自宅にはスポーツカー雑誌等が置いてあったため、わたしはパトカーや救急車、消防車以外の車はすべてサバンナ、ポルシェなどのスポーツカーだと思って成長しました。そのため、まったく記憶にはありませんが、八百屋さんの軽トラックを「ポルシェ」といっておじさんを喜ばせていたそうです。少しでも丈夫になるようにと、4歳から始めたスイミングのお陰で徐々に体力がつきますが、神経質な性格が変わるまでにはまだまだ時間がかかるのでした。

  • 中3の頃のわたし(右は弟) 小学校から高校まで 小学校から高校まで

    小学校から高校まで

    神経質すぎるので女子校に通わせようという両親の判断のもと、合格した複数校のなかからわたしが選んだのは、光塩女子学院。はじめて校門をくぐった受験当日に「わたし、この学校に行く!」と宣言したそうです。こうして選んだ学校に、高校までの12年間通いつづけることになり、この12年間がわたしの人生の基礎をかたちづくっていきました。

    読書大好きで知識欲旺盛、負けず嫌いで神経質ながら本番には強く、演劇部と新聞部で活躍……絵に描いたような優等生として歩んでいきます。けれども、狭い世界で神経質に生き正論を振りかざすわたしは完全に煙ったい存在だったと思います。「いじめ」というほどのものではありませんが、無視されたり悪口をいわれたり、それなりに苦しい日々を1年以上過ごしました。

    そんなある日、「相手に絶望する前に自分から心を開かないとダメだ!」と気づき、肩肘張るのをやめて開き直りキャラになっていきました。好きなことに耽り、自分と徹底的に向き合う充実した12年間を過ごしました。

    人間の知性は万能ではないこと、迷ったときは厳しい道を選ぶことを学びました。一信徒として、ポストカードは常に手帳に入れて持ち歩いています。祈りを行動に変えるために。

  • 尊敬する人との出会いと別れ 尊敬する人との出会いと別れ

    尊敬する人との出会いと別れ

    中学時代に歌舞伎に目覚め、お小遣いを貯めコンビニおにぎり持参で歌舞伎座の三階席に通いはじめました。三代目・市川猿之助(二代目・猿翁)に心酔し、「スーバー歌舞伎」のような作品を書きたいと思うようになりました。そんな想いを綴ったファンレターを出すと、年賀状をいただき、その後、しばらくして演出担当の某氏からご連絡がありました。日く、猿之助が「二十一世紀歌舞伎組」に演出部を作り研修生を育てたいという意向を持っているので、脚本家志望として加わらないかというありがたいお誘いでした。こうして、「ますは歌舞伎が作られるプロセスを学びなさい」という方針のもとで、稽古場や劇場に通うことになりました。自分もこのような舞台に関わりたいという思いが募りましたが、同時にテクニックだけではなく、なにを描きたいかという自分のテーマの核となるべき哲学がなければ続けられないと痛感しました。将来の進路選択に際しては、そのことが常に頭にありました。しかしあるとき、稽古期間中の歌舞伎座客席で松竹の担当者から呼び止められます。「あなたたち、歌舞伎の脚本を書きたいとか演出がしたいとか思っているみたいだけど、ひとつのプロジェクトにどれだけのお金がかかっているかわかる?失敗したら、大きな損失が出るのよ。それなのに、そんなプロジェクトに無名の新人を使えるわけないでしょ」薄々気づいていたものの、敢えて目を逸らしていた「大人の事情」……あの場でそれをきっぱりと通告できるのは彼女だけであり、見兼ねて「大人」として忠告してくださったのです。

  • 仲間が送ってくれた手作りマスク 仲間が送ってくれた手作りマスク

    まずは研究者として自分の「哲学」を追求しつつ、できればそれなりの知名度も得てからまた戻ってこよう、そう思い、受験勉強に打ち込みました。大学入学後も、ますは研究者としての自分の道を見つけて卒業論文を書くまでしばらく歌舞伎はお休みし、卒論をもってご挨拶に行こうと決めたのです。その前にバイタリティの塊だった猿之助が病を得て舞台に立てなくなる日がくるとは、思いもよらないことでした。誰もが認める何者かになりたくて、でも立派な何者にもなれなかった自分は顔向けできない…いまだに師匠に近況報告する機会を失ったままでいます。当時の研修生仲間はそれぞれ、看護、介護、スクールカウンセリングなどの分野でプロフェッショナルとして活躍しつつ、夢を追いつづけています。仲間のひとり、演劇ライターとして活躍していた住川絵理ちゃん(そう!いくつ歳を重ねても当時のまま、ちゃん付けで呼び合える仲間なのです!)が2018年3月に逝去されたのが、いまだに信じられません。仲間同士で集まると、絵理ちゃんもその場にいるような気がしてなりません。画像は、仲間が送ってくれた手作りマスクです。新型コロナウイルス感染症終息後に会うのを楽しみにしています。

  • 大学時代・大学院時代

    大学時代・大学院時代

    早稲田大学での仮面浪人生活を経て念願の東京大学に入学、読書と勉強に打ち込む(恋愛以外は)充実した大学生活を過ごします。しかしなんと進学希望届を書き間違え、やむなく第二志望の学科に進学。卒業論文では江戸時代の思想家・荻生徂徠(おぎゅうそらい)を論じました。

    大学院は元々希望していた学科に進学しようと思っていましたがセクハラ・バワハラの類もあって断念、1年留年したのち法学政治学研究科研究者養成コースに進学することとなりました。当時、教養学部からの進学は前例がなく、わたしが第一号、現在も後につづく学生は出ていないようです。大学院に進学したものの教養学部と法学部の気風の違いに悩み、なにより優秀な日本政治思想史の伝統のなかで自分がいかに潰れすに研究をつづけられるか苦しみました。どうせなら、自分がやりたいこと、自分にしかできないこと、誰もやっていないことをやろうと決意し研究テーマを選択しましたが、半端なく厳しい道でした。

  • 双子

    心を病みかけてまた1年留年し、その途中で結婚もして3年間かけてアルバイトをしまくって学費と研究費を捻出しつつ修士課程を修了、無事に博士課程に進学しました。博士課程では、いよいよ専門家の卵として家庭生活と両立しながらの研究生活スタート。在学中に任期付研究員に採用され、研究補助金と月額給与相当資金も獲得、軌道に乗ったところで、めでたく妊娠しました。

    なんと想定外の双子でした!

  • 博士

    切迫流早産を乗り越えて無事に出産し、双子を完全母乳で育てますが、さすがに激やせして倒れてしまいました。当初予定どおり産後7か月半で復学し、研究室で搾乳をしながら子どもたちを保育園に預け、博士論文執筆に取り掛かりました。子どもたちを保育園に預けて大学に向かい、朝9時から集中して研究し17時に研究室を飛び出し保育園にお迎えへ。帰宅後は入浴・食事準備・片付け・洗濯・翌日の保育園準備と目まぐるしく過ごし、子どもを寝かしつけて仮眠を取ってから夜中に起きて3時間程度論文執筆してまた就寝…若かったからできた神業でした。必死で博士論文を完成させ、特別優秀賞受賞のおまけつきで博士号を取得しました。

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